たまみね園長,ひとこと・ふたこと・みこと


玉峰保育園

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園長先生から一言

毎月発行の「たまみねだより」に掲載している園長先生のコラムです。

H20.4. 花と嵐

春の陽光が穏やかに射し込む季節となりました。園庭の桜もこの季節を待ちわびていたように大きく咲き誇っています。100_1805.JPG持國天
 先日長崎市でのお葬式の帰りに、橘神社へ立ち寄ってみました。桜の花は八部咲きでしたが、広大な境内を見事なまでに春色に彩っていました。お花見の宴も用意されていて、日暮れを待たずにちらほらと宴会も始まっていて、花見客や屋台の人たちもどことなく顔がほころんで、新しい季節の始まりに皆の心が弾んでいるようでした。私はこの幸せな光景を見ながら、唐の詩人・宇武陵の漢詩『酒を勧む』を思い出しました。
 勧君金屈巵(君に勧む金屈巵)
 満酌不須辞(満酌辞するをもちいず)
 花発多風雨(花開けば風雨多く)
 人生足別離(人生別離おおし)
この詩には作家の井伏鱒二が意訳した有名な名訳があります。
 コノ サカズキヲ 受ケテクレ
 ドウゾ ナミナミ ツガセテオクレ
 ハナニ アラシノ タトエモアルゾ
 「サヨナラ」ダケガ 人生ダ
弟子の太宰治が好んで吟じていた詩と聞きますが、原文よりもこの訳詩の方が馴染み深いかもしれませんね。『「サヨナラ」ダケガ人生ダ』なんて、沈痛でありながら潔い悲哀の心情が伝わってきます。それに対して、宇武陵の原文には「サヨナラが定めの人生だからこそ、このひと時を痛飲して楽しもうじゃないか!」という肯定的な諦観の響きがありますね。葬儀の帰りに花見処でそんなことを考えていました。
 私たちの毎日も二度とはめぐってこない日々。子育てに奮闘している時も過ぎてみれば、大変だったけど幸せな思い出になることでしょう。二度と戻らないこの幸せな時を、子ども達と一緒に笑って過ごしていきましょう。

H20.5. 野の花の思い出

やわらかな光のもと,春の風が心地よく流れてゆく気持ちがいい季節です。外を歩くと野にはたくさんの花が咲いていて,その香りが一面に広がっています。今月の特集は「野の花遊び」。保育士が野の花を使って素敵な遊びを紹介しています。子どもの頃 外で遊んだ楽しい時間を思い出しませんか。十一面観音.JPG十一面観音
 サヤエンドウで笛を作っておしゃべりをしたり,カンバミの花相撲で真剣に勝負をしたり,山へ探検に行くとオナモミがズボンにくっついていて,いつの間にか当てっこに興じていたり,私にも楽しかった思い出がたくさんあります。いとこの女の子達が訪ねてきた時には,初めてレンゲソウの花輪作りをして,私がかぶると何だかねじり鉢巻みたいになってしまうのですが,いとこの子がつけるとまるでおとぎ話のお姫様のように見えて,子ども心に「かわいいな〜」ってドキドキしたことも思い出しました。子どもの頃に見たあの風景と、その風景いっぱいに広がっていた花の香りが再び目の前に広がりました。
 みなさん,この素敵な季節に子ども達と一緒に野に出てみませんか。子どもの頃の気持ちに戻って野原を駆け抜けると,きっとあの頃のことがたくさん思い出されますよ。あの時の子どもが今では大きく成長して,自分によく似た子どもと一緒に笑っている。ここに生命の連鎖の不思議さと,いつの世も変わらない幸せの光景が広がっていくように思えます。それは何故か永遠に続いていくような不思議な感覚をともなって,私達と子ども達の心に残っていくことでしょう。

H20.6. 一緒にいよう!

今年の3月下旬から突然、一匹の三毛猫がうちの玄関に居座りだしました。猫に関心など一度ももったことがない私の家の、どういうわけか玄関の外の一角にじっとしてうずくまっています。そこは日当りがよくて居心地がいいのか、家の中に入る様子もなく丸まっていました。初めの頃は『なんだ?』なんて思い、相手にしていなかったのですが、家に入るたびに猫をまたがなくてはならず、無視することも出来ません。玄関を出入りするたびに目が合うものですから、次第に『かわいいな〜』なんて思いだし、「いってくるね」なんて声をかけるようになっていきました。家に帰った時に猫の姿が見当たらないと、何だか心配にまでなってきます。庭の大きな石の上などにダラリと横たわってのんきに昼寝しているのを見つけるとホッとして、こちらから駆け寄り「ただいま」と背中をなでてあげます。そのうちに家族みんなで可愛がるようになり、三毛猫だから「ミケティ」なんて単純きわまりない名前までつけて、次第にエサまで与えだし、ついには飼い猫になってしまいました。釈迦如来.JPG深大寺・釈迦如来
 元来がのんきで人なつこい性格なのか、道の真ん中に横たわって眠ったり、子ども達とキャッチボールをしていると必ず近寄ってきたり、「あぶないから、あっちにいてね」と何度も抱きかかえて移動させました。ある時など、庭の真ん中でまるで人間のように大の字になって眠っているのです。「野生動物なのに、あまりにも無防備過ぎ」と、家内と苦笑したものです。
 動作があまりにも緩慢だったのですが、実は妊娠していたようで、ある日様子がおかしいので、家内がダンボールを用意してあげると4匹の子猫を出産しました。その子猫達の可愛いこと可愛いこと!孫が生まれたように、すごく嬉しいのです。子ども達がそれぞれに好き勝手な名前をつけて、家族みんなでミケティ共々暖かく見守っています。
 一緒にいる時間が増えていくと、その時間に比例するように愛情が大きくなっていきます。一緒にいると、愛着がどんどんわいてきます。何の見返りも期待せず、ただ愛情を持って接していくと、大切な存在になっていくんですね。毎日ミケティに大切なことを教わっています。

H20.7. 縁起に生きる

私は絵を描くのが好きです。園長と住職を兼務していて年中忙しく動き回っていますが、唯一の自分の時間として毎週1時間半、絵を描く時間をとるようにしています。題材は仏像です。その高貴なご容姿やお顔を一心に見つめ、ただ筆を進めていきます。これまでに30枚以上描いてきましたが、その度にデッサン力や技術力の貧弱さを憂いながらも、自分では思いもよらないような線を描いたり、使いそうもないような色をのせたりすると、自分で描いておきながら自分自身の想像力を超えた作品が現れてきて、とてもワクワクします。千手観音.JPG千手観音
 平成16年8月の園だより「薫習」でも書きましたが、曲を作る際もそうです。色んなアイデアを盛り込んでいる内に、自分が意図していなかったものがポンと現れてきます。「AとBを合わせればCになるはずだ!」なんて方程式はそこには存在せず、色んなものを混ぜ合わせてみたら「こんなのが出来ちゃいました。」という感じです。
 私たちの人生にもそのような一面があるような気がします。基本的には(種をまけば芽が出るように)因果論によって進んで行きますが、そこに様々な条件(日光や水分,地質など)が加わり、思いもよらぬ結果が現れてくることがあります。これを仏教では「縁起」といい、「この世は常に生滅変化するものであるが、その変化は無秩序なものでなく、様々な条件が加わり一定の働きをもって現れる」と説きます。つまり、思いもよらぬ結果も、自分自身が気がついていないだけで、過去の様々な経験が影響して今に現れていると考えるのです。
 そう考えると、思いがけず気に入った絵が仕上がった時には、父や母、恩師や友人、家族や仲間など、数多くの人たちの影響や恩恵を感じないではいられません。そして、そのようなたくさんの人達にご縁をいただき、歩んでいる自分を幸せに思います。目まぐるしく変わる世の中で、みなさんと一緒に生きていることに感謝しています。

H20.8.長い箸

8月はお盆の月です。お盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)といって、お釈迦様の十大弟子のひとりである目蓮(もくれん)尊者が、餓鬼道に落ちた母親を救おうとする話に由来しています。100_8763.JPG十一面観音(和銅寺)
 この「餓鬼道」とは仏教が説く六道(死後に行く6つの世界)のうちの一つです。餓鬼道の世界に落ちた人たちはいつもお腹をすかせて苦しんでいます。食べる物があるにはあるのですが、それを自ら口に運ぼうとすると火になって燃え上がってしまい食べることができず、決して満足することがない飢えと乾きの世界だということです。恐ろしいところですね。死後この世界に行く人は、生前に強欲で嫉妬深く、いつも自分のことばかり考えて貪ってばかりいるような人なのだそうですよ。ますます恐ろしくなります。
 さて、そのような恐ろしい餓鬼道の世界も幸せな極楽の世界も、食卓に乗っている料理に変わりはないのだという話があります。どちらにも美味しそうなご馳走が並んでいるのだそうです。ただし、その料理は三尺(約90cm)もある長い箸を持って食べなければいけません。これでは食べにくいですね。せっかく食べ物をつかんでも、長い箸では上手に自分の口にまで運ぶことが出来ません。しまいには、イライラして周りの人たちと喧嘩してしまい、一口も食べることが出来ません。そのようにして、いつまでたっても満たされることのない飢えと乾きに苦しんでいるのが餓鬼道の世界。
 それに対して極楽の人たちは、同じ三尺のお箸でご馳走をつまむと、向いの人に食べさせてあげるのだそうです。そして自分は反対に相手の人から食べさせていただく。そのようにお互いに思いやって、極楽の人たちはみな満ち足りて幸せに暮らしているのだそうですよ。
 他人を思いやる心が、自分の幸せにもつながっていきます。思いやりの気持ちをもって毎日を過ごしていきましょう。

H20.9.軽快に走ろう!

先日長男の陸上競技記録会の応援に行きました。夏空のもと、小学生から一般まで多くの方々が競技に汗を流されていて、実に爽やかな雰囲気でした。「人類が(速く走ることよりも両手を使う利便性を優先させて)4足歩行から2足歩行に変わった時から、速く走ることは人類の共通感覚であり夢である」と言った人がいましたが、それにしても、足が速い人の動きは滑らかで美しいですね。余分な力が抜けてリラックスした動きは、見ていて惚れ惚れします。本当に人類共通の憧れなんですね。夢違観音.JPG夢違観音
 今年は北京オリンピックが開催され、陸上男子400mリレーでは日本初の銅メダルを獲得しました。すごい快挙です。その陸上日本選手団監督の高野進氏が、自身のアスリート人生を振り返り「肯定的な無抵抗」と表現されていました。棒高飛びから短距離に転向したきっかけは怪我とコーチのすすめから。3つのオリンピックに出場(バルセロナオリンピッックでは60年ぶりの決勝進出)されるなど順風満帆の陸上人生。そして引退を「アスリートとしての死」とまで自覚され、33歳でアメリカに渡ったさいには、自身が400m日本記録保持者でありながらも新しい走法を積極的に吸収され、独自の走理論とトレーニング方法を確立されるなど、その熱意とヴァイタリティーは驚くほどです。その高野氏が自身の陸上人生を『何とも無抵抗な生き方』と表現されるのです。『とにかく、目の前におかれた状況を受け入れてきただけ』と。しかしながら、それだけでは日本を代表するスプリンター、監督にはなれないでしょう。氏の言葉は続きます。『ただし、一旦受け入れを決意してからは「仕方ない」とか「この程度でいい」と思って取り組んだことは一つもありませんでした。とにかくワクワクドキドキが好きな性格も手伝ってか、与えられた環境に対して挑戦的に取り組むようにしていましたし、日々創造力を働かせていました。』
 私たちみんな、体格や能力、環境などが異なります。「ない」ものに対して不平をいうのではなく、「ある」ものをしっかりと受け止め、自分自身が今おかれている状況と真摯に向き合うことで人生が大きく広がっていくのでしょう。
 「肯定的な無抵抗」。川の流れのようなひょうひょうとしたこの表現に、すっと力が抜けて、軽快な一歩をふみ出せそうです。

H20.10.初めての言葉

先月,NTTコミュニケーション科学基礎研究所の調査による『赤ちゃんが最初に話す上位20語』が紹介されていました。
(1)まんま(ごはん)7.7.文殊菩薩(法隆寺).JPG文殊菩薩
(2)おっぱい
(3)いないいないばぁ
(4)ママ
(5)はーい(返事)
(6)ワンワン
(7)ねんね
(8)パパ
(9)バイバイ
(10)よいしょ
(11)どうぞ
(12)お母さん
(13)お父さん
(14)ニャンニャン
(15)くっく(靴)
(16)ある,あった
(17)痛い
(18)ないない(片付ける)
(19)バナナ
(20)ブーブー(車)
何だか眺めているだけで,子ども達の笑顔が浮かびそう言葉が並んでいますね。これに関しては,へたな考察をするよりも,皆さんのお子さんがはじめて話された時のことを思いだして頂くことが,何よりも子どもの成長を実感できるのではないでしょうか。
(詳細は『こども語辞典』http://labs.baby.goo.ne.jp/で公開されています)

H20.11.吾、四十にして

40歳になりました。10月のお誕生日会がちょうど私の誕生日と重なっていたので、子ども達からもお祝いしてもらいました。子ども達の笑顔に囲まれて、とっても幸せな気持ちになりました。ありがとうございました。7.7.九面観音(法隆寺).JPG九面観音
 振り返ってみると、私は節目となる誕生日をよく一人で迎えていました。20歳の時は一人旅の途中の北海道・阿寒湖で迎え、30歳は修行道場で坐禅をくんでいました。祝ってくれる人もいなくて、一人で静かに過ごしていました。元来、『誕生日とはお祝いしてもらう日ではなくて、産んでくれた親に感謝する日だ!』なんて豪語していましたので、あまり気にもかけていなかったのですが、今回のように子ども達と一緒にお誕生日会を過ごしたり、特別ではなくても普段の夕食を家族みんなで過ごしたりすると、やっぱり嬉しいものですね。いつもと同じ1日のはずなのに、心に残る幸せな1日になりました。
 道元禅師様は「この一日の身命は尊ぶべき身命なり」と言われています。更に、「この1日を真剣に仏道修行に生きれば100歳を生きることよりも価値があることだぞ(意訳)」と仰っています。毎日を当たり前のように過ごせるのは親から頂いたこの身体があってからこそなんですね。そう考えると、この身体は尊ぶべきありがたいものですね。この身体を通して、世の中の役に立てるようしっかりと1日を生きられたら、何と素敵な1日なのでしょう。私たちの人生は1日1日の積み重ねなのですから、素敵な1日が続いていくと、何て素晴らしい人生になることでしょう。
 孔子は「四十而不惑(40歳にて惑わなくなった)」と仰いましたが、なんの、なんの、まだまだ迷いっぱなしです。でも、迷いっぱなしのままで、毎日が素敵な日になるように、この身体いっぱい精一杯生きていきたいと思っています。

H20.12. 絵本とテレビ

先月の7日「南島原市ブックスタート講演会」に行ってきました。9.1.善𧸐師童子(雪渓寺).JPG善𧸐師童子(雪渓寺)講師は活水女子大学非常勤講師の二羽史裕先生(口之津町出身)です。英国発祥の「BOOK START」とは,単に赤ちゃんに絵本を与え,読み聞かせをすることのみを意味するのではなく,「SHARE BOOK」つまり「赤ちゃんと暖かい時間を分かち合う」ということだそうです。絵本の大切さや,絵本の内容を理解するために外で遊ぶ体験をたくさんすることの必要性,絵本を楽しく読み聞かせるためにはまず親や保育士・先生が本好きであること,そして「子どもの好きな本をみつけてやろう!」という提言など,具体的な事例や絵本を交えながら,多くのことをお話し下さいました。ここでは,その中でテレビと言葉との関係について述べられたことを,私の見解を交えながらご紹介致します。

<テレビの言葉は人間の言葉ではない>

 現在多くの子ども用テレビ番組が放映され,中にはとても吟味された内容や工夫を凝らした構成に,よくできた番組だな〜と感心することもあります。子どもの言葉の発達のためにと,積極的に子ども用教育番組を子どもに見せているご家庭もあることと思います。しかしながら二羽先生は,テレビは逆に会話の発達を阻害し想像力をなくしてしまうと指摘されます。テレビから流れてくる言葉は生身の人間の言葉ではなくて,機会から発せられる言葉であり,こちらから呼びかけても決して返答が帰ってくることはありません。子どもがテレビ番組の登場人物に声をかけてもテレビは返事をしてくれません。子どもたちはそれに慣れてくると,テレビと同様の反応をしだすと指摘されます。つまり,私たち親や保育者の声かけに対しても反応しなくなり,返事もしなくなってきます。そして言葉自体を信用しなくのなるのだそうです。たしかに家事などで忙しくて子どもの相手ができないときや,ぐずって手が付けられなくなった時にテレビを見せると,子どもはピタッと静かになって番組に夢中になります。育児中にはとても助かることですが,これが大きな落とし穴みたいです。色彩豊かで場面転換も速く,しかも返答をしない一方通行のテレビ番組に慣れてしまうと,日常の生活の中で子どもたちは,集中力がなくなり,呼んでも返事をしなくなり,目を合わせての会話ができなくなっていくそうです。

<物語は生の声で>

 二羽先生は大人が声に出して本を読んであげることも推奨されていました。小学生になって字が読めるようになっても,大人が読んであげることが大事なのだそうです。小さな子どもにとって字はただの記号です。それを意味のある言葉として大人が声に出してあげることによって,言葉がつながりをもって子ども中に入っていきます。なにも特別に絵本を探す必要はありません。親が子どもの頃に読んでもらった本を子どもに読んであげたらいいのです。そこに時代を超えた物語の継承や世代間のつながりが出てきますし,大人にとっても絵本の楽しさや内容の深さを改めて発見していくことにもつながっていくでしょう。
 また,私の尊敬する昔話の研究者・元筑波大学教授の小沢俊夫先生も,身近な大人が物語を生の声で読んでやったり語ってやったりする大切さを説かれています。身近な大人がお話しを読んでやったり,語ってやることは子どもの成長において大切な支えとなると指摘されます。子どもに絵本を読んでやることは,大人にとっては時間も割かれ,眠い目をこすりながらの負担になることもあるでしょうが,そこを頑張って一緒に過ごす時間を持つことがとても大事なことだと思います。小沢俊夫先生は言われます。「子どもが心身ともに元気に育っていくためには,子どもが,自分は愛されていると思えること,自分が信頼されていると思えること,自分が評価されていると思えることが大切だと思う。それには,おとなが子どもに直接関わることが必要である。自分の声で読み聞かせる,いっしょに遊ぶ,いっしょにスポーツする,いっしょにお料理をする,いっしょに楽しく食べる,今日あったことをいろいろ話し合う。毎日のそういう生活が子どもに,自分は愛されている,信頼されている,評価されているという思いを抱かせるのだ。」

 今日から子どもにテレビを見せる時間を少し短くして,一緒に絵本を読む時間をつくってみましょう。この経験は,子どもたちの一生の大きな宝物となり,子どもたちの豊かな暮らしの基盤となっていきます。

H21.1. あたたかい心

明けましておめでとうございます。
 随分と寒くなりました。今年の冬は冷え込みが急でしたね。朝登園してくる子ども達のほっぺたが赤くなっていて、「おはよう!」と元気に挨拶する息が白くなっています。坐禅と祈り.jpg
 さて、去る12月17日に「あたたかい心」をテーマと致しまして、玉峰寺にてご法話とコンサートをひらきました。本堂でのコンサートは「釈迦の言葉とキリストの言葉」と題しまして、お釈迦様のお言葉を元駒沢大学総長の奈良康明先生が、キリストのお言葉をイタリア人神父 フランコ・ソットコルノラ神父が朗読なさいました。クラシック音楽は、当園でも演奏していただいた清水醍輝氏(ヴァイオリン)、篠崎由紀氏(チェロ)、美穂先生(ピアノ)が奏でます。本堂の中央にピアノと香台をおき、それを中心にして演奏家や僧侶、神父さん達が円座になり、その周りを参詣者の方達が囲むようにして坐ります。須弥壇のロウソクの炎が微かながらもしっかりと中心を際立たせ、おぼろげな光がはっきりとした影を刻みます。その光は暖かな金色で本堂全体を抱き込み、まるで母の胎内にいるような安心感を与えてくれます。 IMG_0130.JPG
 仏典や聖書の朗読が始まると、本堂いっぱいに集まっていただいた方々一人ひとりに、ゆっくりとしみ入るように両聖者のお言葉が広がっていきました。それを受け継いでいくように音楽の美しい調べがあふれ出します。本堂全体がふんわりとあたたかい雰囲気につつまれて、この時この場所でともに生きていることの喜びを感じました。人と人とのかかわりによって、あたたかさが伝わるように思われました。そしてそれをとても幸せに感じました。
 子育ても同じですね。子どもとのかかわりによって、お互いのあたたかさが伝わっていきます。そのあたたかさは当事者にしか伝わらない特別なものです。そのときその時を、精一杯にあたたかい心で過ごしていきたいと思います。

H21.2. 冬の寒い日には

今年の冬は正月に雪がちらついたり、寒い日がありましたね。お寺での朝のお勤めは年中裸足で行いますので、冬の寒さを足の裏で感じながら、懐かしい冷たさを思い出しました。でも、寒くなるとついつい背筋が丸くなり、動くのがおっくうになります。すると体がさらに冷えてきて、「さむ〜」って、ますます体を丸くしてしまいます。一方、子どもたちを見てみると、寒さなんてどこ吹く風。ぐんぐん元気に遊び回っています。動き回るから体が温まってくるのでしょう。かわいい顔を紅潮させて楽しそうです。『そうか〜、寒い時は体を動かすとあたたまるんだよな〜』なんて、子ども達に基本的なことを教わります。IMG_8355.jpg
 昨年からうちに住み着いている三毛猫のミケティは、相変わらず「我が道を行く」とばかりにのんびりと泰然自若とした毎日を過ごしています。冬になると体毛が伸びてきて、まるでマリモみたいな体つきになり、冷たい風が当たらない場所を上手に見つけて丸くなっています。少しでも陽が射すと、ちゃんと暖かい場所に移動して気持ち良さそうに過ごしています。夕方になると私を見つけては「ミャーミャー」とお腹がすいたと訴え、ご飯を食べたら知らん顔、また悠々と丸くなっています。自然に対して何の抵抗もすることなく、その悠然とした姿に私はいつも感心し、最近ではミケティのことを「我が禅の師匠」なんて呼んで、うやうやしく毎日のご飯を運んで仕えております。風が冷たい日には無理をせず子猫達と集まって丸くなっている姿など、生物本来の生き方を教わるようです。そうなんですよね、寒い時は集まって過ごすと温かくなるんですよね。
 ある日の早朝、まだまだ日もあけない午前4時頃、2匹の猫が争うような叫び声が聞こえてきました。尋常ならざる激しい咆哮に私はびっくりして跳ね起き、庭に置いてあるミケティ・ハウス(猫たちのケージ)付近をみましたが、何事もなかった様子。その場はホッとしていたのですが、後でミケティの様子がおかしいのに気がつきました。人(猫)一倍食いしん坊のミケティが餌を食べないのです。一日中ケージの中にこもり、散歩もしません。むりやり食べさせようとしても拒絶します。おかしいなと思いつつ両日観察していると、足を引きずっている様子。病院に連れて行くと、左足の足首を貫通するほど噛み付かれていたのです。傷の激しさに獣医さんも驚かれていました。前後の様子から察すると、よそから襲ってきた猫から子猫達を守るように闘ったのでしょうね。普段はあんなにゆったりと過ごしているミケティが、その身を挺して子猫達を守ったのでしょう。種を超えた親の愛情にとても感動して、「師匠、さすがでございます。」とギュッと抱きしめました。今では通院の甲斐あって、いつものようにのんびりと子猫と一緒に過ごしています。
 冬の寒い日や、つらい時には、家族と一緒に丸くなって過ごしましょう。必ず暖かい陽が射してくる時が来ます。一緒にいるとその体温の温もりや、優しい心にふれて、心も体も温かくなってきます。「寒い時は一緒にいよう!」禅の師匠・ミケティから教わった大切なことです。

H21.3. 世界中の子どもたちが

先月、お釈迦様の足跡を慕って、インド佛跡巡拝に行ってきました。2500年前にお釈迦様が歩かれた道や、人々に教えを説かれた場所を訪ね、その風土の色合いや香り、悠久な時の流れを全身で感じてきました。田舎道などは、お釈迦様在世当時と変わらぬ風景が広がっているようで、現代の慌ただしい時間の流れからポツンと残されたような、清らかでゆったりとした特別な時間が流れているように感じました。100_9871.JPG
 行く先々でたくさんの現地の子どもたちにも会いました。最初は初めて見る日本人を好奇の目で眺めているのですが、私がデジカメで子どもたちの写真を撮ってそのプレビューを見せると、例外なく「キャッキャ!」と喜んでくれます。その子どもたちの笑顔の素敵なこと!そのうちに大人も交じって一緒に記念撮影をしたりして、大いに盛り上がりました。言葉が介在しなくても、お互いの気持ちは通じ合うものです。とても純朴な子どもたちと、素敵に楽しい時間を過ごしました。101_0011.JPG
 その一方で、貧しさ故にその大きな瞳に陰をおとしている子どもたちもいます。外国人と見るとすぐに寄ってきて物乞いをしてきます。幼い小さな手が伸びてくると心が痛みます。『助けてあげたい』と強く思います。しかし、私が通りすがりの無責任な慈悲心でお金や物を渡すと、そのことがかえってその子の将来を大きく損なうことになります。つまり、働くことなく物乞いをすることで金銭を手にすると、その子たちは勉強や勤労に対する意欲をなくしてしまい、将来本当の物乞いになってしますのだそうです。また、悪いブローカーから強制的に物乞いをさせられることもあるそうです。この悪い環境を断ち切るためにも、私たちは心を鬼にして物乞いでは金銭が得られないことを子どもに示さなくてはいけません。差し出された小さな手を拒むことはとてもつらいことですが、それが本当の思いやりにつながるのだと信じます。
 新沢としひと氏作詞の『世界中の子どもたちが』という歌があります。
  世界中の子どもたちが 一緒に笑ったら101_0163.JPG
  空も笑うだろう ラララ 海も笑うだろう
 世界中どこでも、子どもたちの笑顔はとびっきり素敵です。たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん眠って、生き生きとした瞳でいつでも微笑んでいて欲しいものです。そのためには私たち大人がやらなくてはならないことがたくさんあります。私たち大人の行動は子どもたちの笑顔や涙に直結しています。世界中に幸せの虹をかけたいものですね。