たまみね園長,ひとこと・ふたこと・みこと


玉峰保育園

TAMAMINE Nusery School Website!





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園長先生から一言

毎月発行の「たまみねだより」に掲載している園長先生のコラムです。

見つめ合うこと

お釈迦さまが歩まれたインドの地を旅してきました。絵を描くのが好きな私は、スケッチブックを片手に現地の人たちに声をかけ、およそ100人の人たちの表情を描いてきました。大人も子どもも、絵に描かれることをとっても喜んでくれて、駅の構内では「僕も描いてくれよ」と、人だかりができたほどです。写真だと「はい、ポーズ。(Say Cheese)」の3秒間だけしか、相手と向き合いませんが、絵のモデルになってもらう時には、2〜3分間は互いに向かい合います。顔の輪郭や髪型、服の色合いや体格など、その人の身体的特徴。性格や生き方、表情からかもし出される雰囲気、その人が持つ、その人だけの空気感があります。それを一生懸命に写し描こうとします。特に目を描き込むときには、「Look at my eyes, please.(僕の目を見つめてもらえます?)」なんて、普段では絶対に言わないようなことを言って、お互いにしっかりと見つめあいます。そうしているうちに、不思議と信頼関係が生まれてきます。英語を話せない人とでも、なんだか仲よくなれるのです。これは予期せぬことでした。しばらく一緒に話したり、遊んだり、何人かはメールアドレスを渡してくれたり、何故か急に親しくなるのです。
 考えてみると、会話もなく互いに見つめ合っていることなんて(付き合って間もないカップルならいざ知らず)、日常ではあまりありませんよね。毎日顔を合わせる家族でさえも、毎日互いにジーッと見つめ合うなんて、ちょっと想像しにくいです。でも、子どもが小さいときはどうでしたか?けっこう毎日見つめ合っていましたよね。それでいて飽きることもなく、むしろ幸せを感じていませんでしたか?そうなんですよ、目と目で見つめ合うことって、幸せにつながってるんですよ。
 風景を描くときも、そう。山々をジーッと見つめてスケッチしていると、すごく幸せな気分になります。これはもしかすると、僕が山を見ているだけではなく、山も僕を見つめ返して、互いに見つめ合っているのではないでしょうか?それで、とっても幸せに気持ちになるのではないかなと思いました。
 今日どうぞ、誰か大切な人と互いに見つめ合ってみて下さい。言葉なんていりません。きっと、とっても幸せな気持ちになれますよ。
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H22.2. 雪の思い出

今年は久しぶりに雪がふりましたね。子ども達は大喜びして、大きな雪だるまを作ったり、雪を丸めて雪合戦をしたりしていました。白い真綿を敷き詰めたような一面の雪景色に、子どもたちの吐く息の白さや帽子の赤い色がとっても美しく映えていました。雪景色ってキレイなんですよね。IMG_2940.JPG富楼那
 私は禅の修行を北陸の金沢で行いました。生まれて初めて見る北国の雪は、幻想的なまでに美しかったです。この白い雪の中に世界中の音が吸い込まれていっているのでは?と錯覚するほどの静寂が広がっていました。裸足でしもやけが切れた足がジンジンと痛むのですが、そのツンとした感覚さえも被い尽くされてしまうような静寂な空気感。本当に感動的なまでに美しかったです。「きれいだな〜」と思わずつぶやくと、側にいた先輩僧が「いまに、憎らしくなって来るよ」と少し皮肉を込めて言いました。
 それから冬の厳しい修行が始まりました。氷のような水では、手がかじかんで雑巾を上手くしぼれません。木魚を叩くのに振り続ける腕に、凍りついた空気はまるで剣のように突き刺さります。カミソリで剃り上げた坊主頭には、わずかな空気の振動も過敏に伝わります。凍りついた畳はまるでカミソリの刃のようになり、歩くだけで足が切れそうに痛みます。太ももから下は感覚がなくなり、自分の足ではないようです。その裸足の足にわら草履をつけて、大寒から立春までの約一ヶ月間、毎日寒行托鉢に出ます。吹雪になろうが、雨まじりの雪になろうが、毎日托鉢に出ます。合掌した手に雪がつもり、眉毛やまつげも凍りついていました。吹雪で視界が遮断されてしまう事も度々でした。氷水の中を歩いているようなもので、一歩一歩が突き刺すような痛みを伴って、非常に辛かったです。先輩僧が言うように、雪の寒さを憎らしく思いました。
 それでも、月明かりに照らされた雪景色など、ふとした時に、その美しさに圧倒され、幾度となく感動をおぼえました。私たちが知っている日常の世界から、あっという間に色彩を抜き取り、白一色に染めてしまうその雄大な自然の力に、おのずと畏敬の念がわき上がってきます。凛とした空気のなかに身を置く幸福さえも感じえました。
 そして、今年の雪景色。冷たい足先に修業時代を思い起こし、とびっきりの子どもたちの笑顔と笑い声が加わって、とっても幸せな雪景色を見ることができました。

H22.1. 新しい未来へ

新しい年を迎えます。もう西暦2010年です。ミレニアムに突入して早くも10年目になるのですね。2000年を迎えるときには世の中が大騒ぎしていました。私が保育園に勤務し出したのも同年ですから、もう10年が経ちます。早いものです。あの頃想像していた10年後の未来と、現在の状況は随分と異なっているように思われます。少子高齢化は予想以上のスピードですすみ、また経済状況も随分と変わりました。社会情勢の変化に伴い、私たちの社会的価値観や感覚も変わってきています。他方では携帯電話やインターネットに代表される情報ツールの発達により、以前では想像もできないような便利さを手に入れました。これもまた私たちの常識や価値観を変化させていきます。毎年海外の友達からクリスマスメールが届くのですが、以前は手書きのカードが郵送されてきていました。手書きの温かみがなくなる反面、写真などを貼付してあるので彼らの状況が詳しく分かります。世界がずいぶんと狭くなってきました。誰かが「これまでの10年は、21世紀をどのように過ごすかの助走期間だった」と言っていましたが、もしかしたらそうなのかも知れません。これから大きく変わる未来への準備期間だったのかも知れませんね。IMG_2937.JPG乾闥婆
 さて、西暦とはキリスト様がご誕生されてから年がカウントされますが、それとは別に「佛紀」という暦があります。これはお釈迦様がお亡くなりになられた年から数えます。諸説ありますが、今年は佛紀2576年。お釈迦様の時代からおよそ2600年も経つのですね。お釈迦様は人々を苦しみから救うために、特に「心」の問題について多く説かれました。お経をひもといてみると、現代にも適応できるような、実に色あせる事のない珠玉のようなお言葉が並んでおります。社会や地域、時代が移りゆき、人間の価値観が変わったように思えても、人間の悩みなんてそうそう変わるものではないという事でしょうか。
 また、お釈迦様は「諸行無常」を強く説かれました。「諸行無常」とは「世の中は常に変化し続けている」という事です。永遠なんてありません。昨日と今日が異なるように、私たちも毎日変化しています。同じ1日は決して歩むことはできません。もしも同じ日の繰り返しのように感じるならば、それは錯覚です。元旦のように、毎日が真新しい1日なのです。私たち自身が「諸行無常」なる真っただ中に生きる存在なのです。常に変化している「私」が、変化し続ける世の中を生きているのですから、なんだか気が楽になりませんか。むしろ過去や思い込みに固執して、変化を拒もうとする方が怖いですよね。これから未来に向かって、変化を恐れる事なく、大きく躍進していきましょう!
 本年の皆様のご健康とご多幸を心より祈念しております。 知見 合掌

H21.12. 笑顔の秋

秋は行事が多い季節ですね。運動の秋、読書の秋、芸術の秋,食欲の秋と、人それぞれに色々な秋があるようです。玉峰保育園でも運動会やコンサート、ハロウィーン、芋掘りに焼き芋と、まさに色とりどりの秋を満喫しました。IMG_2903.JPG沙羯羅
 運動会での躍動感!子どもたちの熱いエネルギーは私たち大人の歓喜を呼び起こしました。子どもたちの身体的な成長を目の当たりにすると、大きな感動がわき起こりますよね。また、今年の「たまみねコンサート」では、三味線やソプラノ、オーボエとバラエティ豊かな音色にふれることができました。それぞれのミュージシャンの息が感じられるほどの近い距離で、素敵な音に包まれます。これらの音楽はス〜っと子どもたちの胸に染み入ったようです。真剣に見つめていた子、うっとりと聞き惚れていた子、楽しそうに体を動かしだす子、色んな表情が見られました。ハロウィーンパーティでは英語教師のブレントと楽しく遊びました。彼が話す英語を理解しているのかしていないのか、子ども達はすっごく楽しそうに「trick or treat!」って言っていましたよ。また、自分たちが植えたお芋を収穫し、炭火で焼いて、「あちちっち」と、とっても美味しくいただきました。大自然の恵みを、大らかな笑顔で満喫していましたよ。
 これらの様々な経験は、必ず子どもたちの心に残ることでしょう。大きくなって表層的な記憶から薄らいでいったとしても、心にはしっかりと残っています。それが良い経験であればあるほど、その経験がその子の人生を豊かなものにしてくれます。同じ経験をした者全員に同じ感性が現れるわけではありませんが、経験をしていないと感性は芽を出しません。それはカレーライスを食べたことがない人が、いくら言葉で説明しても「カレーライス」の味を想像できず、ましてや調理なぞできないのと同じです。
 子どもたちが様々な経験をして、嬉しそうにしているのを見るたびに、私は心から嬉しくなります。大人のように頭の中だけで処理しようとせず、「今」をしっかりとからだ全体で受け止めて、それをまっすぐに受け入れていく姿は、本当に素敵だと思います。そんな子どもたちの笑顔が世の中で一番美しいものだと感じています。

H21.11. esperanza

当園では職員が出勤する際に,必ず事務室においてあるお観音様とお釈迦様の赤ん坊の像にご挨拶をするようにしています。今日一日の園での安全な生活や子ども達の健やかな成長を願って,しっかりと両手を合わせます。IMG_2112.JPG阿修羅像(興福寺)
 ある日,いつものようにお観音様に手を合わせていた職員を見て,子どもが「どうしておまいりしているの?」と不思議そうに尋ねていました。その職員はその子の方を向き直り,「『みんながけがをしませんように。たのしくすごせますように。』っておねがいしているのよ。」とやさしく答えていました。するとその子はしばらく考え込んだ後で「『りっぱなひとに なれますように』っておねがいしてるの?」「そうね、『いいこになれますように』ってね。」と職員。とってもゆったりとした優しい空気が流れていました。
 さて、スペイン語では「希望」のことを「esperanza(エスペランサ)」といい、「待つ」という意味の「esperar(エスペラール)」から派生しているのだそうです。希望とは「将来に良いことを期待する気持ち」(広辞苑)ですから、いま現在の状況より素敵な状態になることを願うことですね。「夢」をもつことともつながっていきますよね。それが「待つ」こととつながっているんですって。すごく素敵だと思いませんか。ほおづえをついてニヤニヤ笑っているような感じでしょうか。デートの待ち合わせで嬉しそうに待っている人みたいな感じ?それとも釣り竿を垂れている人?「待つ」ことが「希望」につながっていると聞くと、色んなイメージがわいてきます。何だかゆったりとしていて、『希望と一緒になら待つこともいいな〜』なんて思ってしまいます。
 ところが、私たちはよく子どもに「早くしなさい!」なんて言ってしまいます。「ほら、速く!」「早く!」なんて、しょっちゅうです。そして、そう言いながら、子どものことを待てなくてイライラしてしまいます。「もう、はやくしてよ!」なんて、自分の言葉に更に気分が悪くなっていきます。ここには「希望」はありませんね。だって「待つ」ことが出来ないのですから。
 ちょっと腰を下ろしてみましょう。子どもたちの成長を、ゆっくりと待ってみましょう。私たちが微笑んでゆったりと子どもたちを見守るときに、そこに「希望」があふれています。事務室のお釈迦様や観音様も,何も言わずに私たちの成長を待っていてくれています。

H21.10.争いから 穏やかさへ

先日九州国立博物館へ『阿修羅像展』を観に行きました。平日にもかかわらず入場までに1時間半も並ぶほどの大変な人気で,並んでいると余計に気分が高まります。私は4年前に興福寺を訪れて阿修羅像を拝見いたしましたが,あの時の衝撃はとても強烈で、またもう一度お会いしたいと強く思っておりました。今回の展示ではガラスケースもなく,直に見られるということでウキウキしながら再会に赴いたわけです。IMG_1427.JPG阿修羅像(興福寺)
 阿修羅像が安置されている興福寺は,和銅3年(710年)の建立で,来年で1300年を迎えます。1300年の時を隔ててなお,この阿修羅像が私たちを魅了してやまないのですね。時代や地域の価値観に左右されない永遠の美を備えているということでしょうか。作者の力量に,ただただ感服するばかりです。
 阿修羅とは仏教でいう六道輪廻の一つの世界で,「修羅場」などと使われるように,もともと争いの絶えない世界を指します。その世界の主である阿修羅は3つの顔と6本の腕をもつ異形で有名ですが,法隆寺や三十三間堂の阿修羅像のように顔には怒りの表情を表しているのが通例です。しかしながらこの興福寺の阿修羅像は,清々しく凛とした佇まいをした美少年です。その表情には,穏やかながらわずかな不安を含み,強い意志を伴った真剣さが現れていて,見る者の眼をそこから離させない独自の美しさが漂っています。なぜ興福寺の阿修羅像は,他の阿修羅像とは全く異なる表情で創られているのでしょうか。実はこんなエピソードがあります。
 戦いに明け暮れる阿修羅はある時,説法するお釈迦さまに出会い,その説法を邪魔してやろうともくろみます。しかしお釈迦様の説法が耳に入るうちに,その深遠な教えにふれ,次第にその頑な心が解けはじめ,これまでの数々の罪を懺悔していく気持ちが出て来たといいます。すると,怒りに満ちた顔も穏やかな表情に変わり,持っていた武器も捨てて合掌して,お釈迦様の教えを一所懸命に拝聴するようになりました。そしてついには仏教の守護神である「八部衆」の一人に数えられるようになります。興福寺の阿修羅像は,このような争いや憎しみの心から穏やかな心の変容をとらえ,いくばかりかの戸惑いを含むその繊細で純粋なひたむきさを表現したものなのです。
 お釈迦様の教えはそれほど深淵でありがたいものなのですね。しかし,お釈迦様の教えはお経のなかにだけあるのではありません。道元禅師は「峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼佛の声と姿と」と云われています。つまり,この自然界のいたるところにお釈迦様の教えは満ち満ちています。私たちがその教えに気がつけるかどうかです。私たちが真理に気がついた時に,興福寺の阿修羅像のような清々しい表情が現れてくるのではないでしょうか。

H21.9.あなたの幸せを祈っています

暑い夏にようやく涼しい風が吹くようになってきました。選挙が終わり、政権交代が必至となりました。これからまた日本が大きく変わりだすのでしょう。どの政党が政権を取ろうとも、子どもたちにとって幸せな未来が描けるような世の中になって欲しいと願います。IMG_0702.JPGBuddha Preaching Posture 6
 さて、先日ラジオ番組で1984年以来ユニセフ親善大使として様々な国を訪問されている黒柳徹子さんの話をうかがいました。過去30カ国以上の世界の子どもたちの現状を視察し報告されている黒柳さんのお話しはとても興味深く、そして考えさせられました。その中で特に心に残ったエピソードを一つ紹介いたします。
 インドで破傷風の子どもたちをお見舞いされた時の話し。破傷風とは、現在の日本では小児期の三種混合ワクチンで予防接種を受けていて、感染例がほとんどないためにその恐ろしさはあまり知られていませんが、予防接種を受けられない開発途上国においては今なお多く発生しています。この病気にかかると、筋肉が硬直し、ささいな刺激で強直性痙攣を引き起こし、高い確立で死に至る恐ろしい病気です。黒柳さんは病気の進行が深刻な子どもたちをお見舞いされ、10歳ぐらいの子どもの足をさすって「がんばって生きようとしてね」と励まされました。しかしその子の足は硬くなり、どこにも筋肉はなくてまるで物を触っているみたいにガチガチだったそうです。全身が硬直して、死を待つばかりの子だったのですね。するとその子は「う〜〜」という声をあげ、何かを黒柳さんに伝えようとしました。喉の筋肉でさえも硬直していますから、声をうまく出すことが出来ないのです。看護婦さんがその子のメッセージを聞き取り、代弁して伝えました。「この子は『あなたの幸せを祈っています』と言っています。」黒柳さんは大きな衝撃を受けられます。『本当に子どもってすごいものなんだな。自分が苦しくて死にそうな時にも「あなたの幸せを祈っています」と言えるようなのが子どもなんだ。』と。またタンザニアのある村長さんが言われたそうです。「大人は痛いとか苦しいとか色んなこと言いますよ。でも子どもは何にも言わないんです。何にも言わず、大人を信頼してバナナの木の下で死んでいくんです。」
 私たちは子どもたちの純粋さに甘えてはいないでしょうか?大人の都合や気持ちで子どもを振り回していないでしょうか?それでも純粋な子どもたちは、私たち大人を信頼して、心から頼りにして、いつもとびっきりな笑顔を向けてくれます。
 黒柳さんは『あなたの幸せを祈っています』と言った少年の意志を継ぐつもりで親善大使を続けていらっしゃるのだそうです。私も子どもたちの純粋な気持ちを、まっすぐな瞳を、正面から受け止めていこうと思います。そして、子ども達の笑顔がいつも素敵に輝くような保育園にしたいと思います。

H21.8.青空が灰色に変わるとき

夏の日差しが青空を深く染めていきます。特盛りのソフトクリームみたいに重なった雲が、わがもの顔で大あくびをして、空の青さを誇っているようです。私が幼い頃に第一小学校のグランドから見上げた大空は、今よりももっと高くそびえたっていた気がしますが、この透明感のある空の色はその頃と同じようにワクワクとした気持ちにさせてくれます。IMG_0283.JPGBuddha Preaching Posture 5
 先月の22日、日本では46年ぶりの日食が観測されました。私も園児や学童の子たちと一緒に、欠けてゆく太陽を眺めました。日食グラスから覗いた太陽は溶鉱炉からもれた光のようで、三日月の形をして熱そうに浮かんでいました。子どもたちと「すごいね〜!」なんてハシャギながら神秘的な様子を眺めていたのですが、ふと気がつくと、心なしか空が灰色がかって見えます。あたりの色彩も薄れているような気がします。ス〜っと冷たい風が通り抜け、胸がその冷たさに触れたように、フッと不安な気持ちがよぎりました。何故なのでしょう?いつものように子どもたちの笑顔に囲まれているのですが、妙に不安な気持ちになったのです。これはきっと、太陽が食されて、いつもとは違う光が届き、目に見えるものが違って見えていたからでしょうか。いつもとは少しだけ違った風景や空気感が、私をちょっとした不安に陥れたのでしょう。
 「太陽が地球を照らしてくれている。」普段は気にしていない、この当然のことが、とても貴重なもののように感じられました。考えると、私たちは「当たり前」と考えがちな、とっても「有り難い」ものに囲まれて暮らしています。太陽もそう、雨もそう、空気や植物、動物たち、小さな昆虫、子どもたちの笑顔、おいしい食事やおやつ、いつもいつも私たちのまわりにあふれているものが、実はとっても貴重でありがたいものなんですね。

H21.7. 誇り高く生きよう!〜KINGの死〜

“KING”と呼ばれた天才の死が続きました。5月2日に“King of Live”忌野清志郎、6月26日には“King of Pop”ことMichael Jacksonが亡くなりました。どちらも私の青春時代を彩っていたミュージシャンです。IMG_0128.JPGBuddha Preaching Posture 4
 小学生の頃に聴いて衝撃を受けたRCサクセションの『トランジスタ・ラジオ』。それから大学時代まで、いつも清志郎の歌が側にありました。ハードで反骨精神に満ちていながらも、いたるところにユーモアや優しさをちりばめていた楽曲の数々。思い悩んでいた時『君が僕を知っている』に涙を流し、『雨上がりの夜空に』に鼓舞され、発売禁止になった『Covers』では友人と激論を交わしました。何度もコンサートに足を運んで、飽きる程にレコードに針を落としました。時代がCDに移って、私自身も車の運転を始めると、ダッシュボードの中には編集した清志郎のテープを複数置いていました。カーステレオから流れる清志郎の声と、私の青春時代は見事にリンクしています。
 一方、中学校時代に初めて観たMichael Jacksonのプロモーションビデオ『スリラー』は、まさに新しい音楽の時代の幕開けでした。アルバム『Thriller』はレコードが擦り切れてしまう程聴き続けました。その頃フィンランドの友人と出会うのですが、英語が話せなかった私は、Michaelの曲を通じて彼と言葉を介さない楽しい時間を過ごしました。また、福岡ドームのこけら落としで観たMichaelのムーンウォークや完璧なダンスに、只々魅了されました。あの透徹したエンターティナーとしてのプロ意識は本当に衝撃的でした。『Off the Wall』から『Bad』までの空前絶後の素晴らしいアルバム類は、今でも好んで聴いています。
 「人生は短し、芸術は長し」と誰か言っていました。ミュージシャンが亡くなっても、その素晴らしい作品は残ります。今は感謝とともに故人の冥福を祈るばかりです。
 そして清志郎のラストアルバムに収められている『誇り高く生きよう』を聴きながら、私もそう生きたいと願っています。
(幼き頃からの呼び名そのままに、両氏の敬称を略しております。)

H21.6. 月は東に 日は西に

気持ちのいい気候が続きます。温かい日差しに涼しい風が吹いてきて、子どもたちをお外に誘います。新緑は深まり、花々は鮮やかな色を誇り、小さな昆虫たちも子どもたちと遊ぼうと土の上で踊っているようです。たくさんの生命が躍動的に見えるとっても素敵な季節です。100_0664.JPGBuddha Preaching Posture 3
 皆さんは早崎の灯台からすごく美しい夕日が見えるのをご存知ですか?私が口之津で最も好きな場所の一つです。先日東京からの友人にその夕日を見せようと、小2になる次男も連れて案内しました。柔らかな光を放つ太陽が、その色彩を自在に変化させながらゆったりと海に沈んでいきます。天草灘に神々しいまでの静寂が広がっていきました。友人はその光景にすっかり魅了されて、私たちは素晴らしい時間を過ごすことができました。
 その帰り道、灯台を背にして丘を車で登っていくと、私たちは信じられない景色に出くわしました。青白いまん丸の月が、スッと丘から顔を出したのです。その月はものすごく大きくて、フロントガラスからはみ出してしまいそうなほどです。思わず車を停めて降りると、みんな口をポッカリと開けて、その月をしばし眺めていました。友人はこの感動を写真に収めようと、カメラで撮りましたが、デジカメのプレビューで見る月は何故か小さく写し出されています。目の前に広がっている月はあんなにも大きくて圧倒的な存在感で浮かんでいるのに、カメラの月はちっぽけな風景の一つになってしまっています。
 「『菜の花や 月は東に 日は西に』だね。」不意に次男が与謝蕪村の俳句をつぶやきました。私たちは「はっ」として、もう一度月を見ます。さっき見た美しい夕日と、今目の前に迫っている月が、時代の流れを超えて確かに存在しているのを感じました。菜の花こそ咲いていませんでしたが、もしかしたら蕪村が見た光景もこのような光景だったのではないでしょうか。雄大な自然と悠久の時間が奇妙に織り混ざった不思議な感覚を覚えました。

H21.5. 狭間をあそぶ

今年度から新たに子育て支援『たまみね すくすく サロン』と学童保育『たまみねキッズ』を開所いたしました。これまでは保育園という範囲の中で子どもたちの成長を見ていたのですが、入園前のお子さんから小学生までが集い、これまでよりも広い視野で子どもたちの成育を見守ることが出来ます。子どもたちと一緒に、私たちもより質の高い保育を目指してまいります。100_0590.jpgBuddha Preaching Posture 2
 さて、私の尊敬するヴァイオリニスト清水醍輝さんとチェリストの篠崎由紀さんから、「拍」についてこんな話を聞いたことがあります。演奏をする時には、メロディーを奏でている自分とは別にもう一人の自分がいて、メトロノームのようにしっかりとした拍を刻んでいるのだそうです。だから拍と拍の間で自由に表現ができるとのこと。私は楽譜も読めず音楽にはとんと疎いのですが、『なるほど、それで包み込まれるような安定感の上に素敵に情緒豊かな音が乗っかるから、あんなにも感動的な世界がひろがるのかぁ〜』と、独りで妙に納得していました。
 また、書家の榊莫山先生が「書は見えないところが大切だ」と仰っていました。筆が紙から離れて次の点へ移るまでの動き、つまり、墨で書き表されていない筆の通り道が大切なのだそうです。素人の私には筆の通り道はよく見えませんが、『そんなもんなんだろうなぁ』と、勝手に納得しました。
 素晴らしい作品を表現される方々の言葉には、分野は違えどもなにかしら共通する認識があるようです。きっと、点と点,拍と拍,それらの狭間で自由な想像力が動きだすのでしょうね。何もかもが自由気ままなのではなく、しっかりとした基礎に支えられて、その上で個性的な自由な表現が現れてくるのでしょう。狭間を自由に遊び回る姿を想像して,微笑ましくもあり,うらやましくもあります。『何だか子育てにも似ているなぁ〜』なんて,これまた勝手に納得しました。

H21.4. unheard melodies

新しい年度の始まりです。子どもたちはそれぞれ一つ上のクラスへ上がっていきます。担任も代わり、春風と同じように、保育園の中も新しい風が吹き抜けています。100_0587.JPGBuddha Preaching Posture 1
 今年度から新しく、子育て支援『たまみね すくすく サロン』と学童保育『たまみねキッズ』を開所いたしました。これから、より幅広く子どもたちの成長や子育てに関わっていけることと思います。皆さん,どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、私の好きな英国詩人ジョン・キーツ(John Keats)に“ Heard Melodies are sweet, but those unheard are sweeter.”(「聞こえ来るメロディーは美しい。けれども、あの耳に届くことのないメロディーもまたさらに美しい。」拙訳)という詩があります。ロマン派の詩人らしい素敵な響きをもつ詩ですね。この詩は実際に聞こえてくる音よりも、耳に聞こえてはこない音の方がより心に響くということを示しているのだと思います。例えば、この春風のように、眼に見えないものが私たちを心地よい世界に誘ってくれる、そのような事を云っているのでしょう。
 また、『目は口のほどにものを言う』という諺のように、表情や仕草で相手の感情が伝わる時があります。表面的な社交辞令はあまり胸に響きませんが、心からの感謝や気持ちは態度に表れるものです。子どもたちの笑顔からは、言葉以上にその楽しさが、エネルギッシュさが伝わってきます。子どもたちが「園長先生!」って駆けてくる姿を見るだけで、私はとても幸せな気持ちになります。
 この一年、言葉や行動のような外見ばかりではなく、子どもたちの内面にある素敵なメロディーにもたくさんふれていきたいと思います。